私は中学を卒業すると住み込みで働き
看護学校と夜間の定時制高校に通った
本当は全日制の高校へ進学するものだと思っていた
しかし、母から3番目の兄が私立の高校へ
下宿をして通うために私を高校へ行かせる余裕がないと告げられた
青天の霹靂とはこのことだろう
友人たちと一緒に高校へ行けるものだと思っていた私は
なぜ、私だけが働くのか理解できなかった
そこからの2年間は私の64年間の人生の中で
まさしく地獄の日々であった
朝、5時30分には起床し6時から病院内の清掃
7時には厨房の手伝いをして入院患者の配膳
8時に慌ただしく朝食を済ませると
月、水、金は看護学校へそれ以外は病院の外来へ
17時半に仕事と看護学校が終わると
そのまま、定時制高校へ行き21時に寮へ戻る
夕食や入浴を済ませ、課題を終える頃には
日付が変わっていた
我ながらよく2年間もそんな生活ができたものだ
その頃の看護学生といえば、安い給料で雇える
家政婦と同じような扱いであった
雑用はもちろん、トイレ掃除から、自宅の買い物まで
言い付けられていた
2年間で准看護師の資格を得たが
そのまま進学はせずに、全日制の高校へ戻った
母からは、今から給料が上がるのに
なぜ、今更学校へ行くのか、と反対された
勉強しないと、このままでは駄目だと感じたのだ
父は「良いことだ」と誉めてくれた
後から知ったことだが、我が家は進学できないほど
貧しい家庭ではなかったようだ
ただ、女に学問は要らない、働いて給料を入れてくれればいい
母の考えだった
その話をすると同僚は
「丁稚奉公に出された」とみんなで笑う
まさしく、そんな感じである
5万の給料を貰い、看護学校の授業料が1万
夜間の定時制高校の授業料が1万必要だった
母は、2万仕送りをするように私に言い放った
その当時、私は、自分の家が困窮していると思っていたので
毎月、2万ものお金を母に渡していた
自分のお小遣いもなく、お洋服や靴やバッグを買うこともなく
ただ仕事がきついのと学校の勉強が大変なのと常時、眠かった
64歳になった今でも、あの惨めな2年間は忘れない
ただ、あの2年間で精神的な強さは身につけた😆